webzine 医療改善のために
第1号(2001年5月31日発行)
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<特集 なぜ患者の権利が基本か>

プロバイダーとコンシューマー

藤田康幸(弁護士)
(2001.5.20)

現代社会の構造

 いきなり大げさなタイトルで恐縮だが、まず、現代社会の仕組みを確認しておきたい。
 現代社会の基本的な特質の1つは、分業社会であるということだろう。多数の人がさまざまな仕事に従事し、それによって生計を立てている。仕事を通じて提供されているものは、経済学で財とサービスと呼ばれているようだ(有形物と無形物と言ってもよいだろう。)。
 また、もう1つの基本的な特質としては、公権力と私的自由の併存を挙げることができるだろう。社会の構成員のある種の行為などは私的自由に属するものとされるが、他方で、ある種の行為などは公権力の規制などを受ける。また、一定の場合に公的資金が投入されたりする。
 医療に即して考えてみよう。
 医師など医療従事者(以下、煩雑さを避けるため、主として医師に即して論じる。)は、現代社会において必要性が認められている医療サービスを業務として分担している。現代社会ではさまざまな財・サービスが提供されているが、医師は医療サービスの提供を分担しているわけである。
 また、医師の資格を含め、医療のあり方は私的自由の領域に属する問題ではなく、公共政策の問題と一般に理解されている。ある個人が現在において医師であるとして、その個人は生来的に医師であるわけではないし、医療行為を行うことが当然に許されているわけではない。公権力が医療行為を行える資格を決め、その資格を得た者以外が医療行為を行うことを禁止しているという制度の下で、その資格を得たにすぎない。
 現代社会のもう1つの基本的特質である民主制の下では、そのような制度そのものを市民の意思によって改変することは可能である。
 なお、私は現在、弁護士なので、法律業務に関して言うと、一定の法律業務を行える資格を定め、その資格を得た者以外が一定の法律業務を行うことを禁止しているのも公権力であり、それも市民の意思によって改変可能である。
 また、医療のあり方が公共政策に属すると理解されているからこそ、公的資金が投入されているのである。

パーシャル・プロバイダー

 分業社会における個々人は、言わばパーシャル・プロバイダーだと思う。
 身近な財であるテレビに即して考えてみよう。テレビは電機メーカーが製造して各種の流通経路を経て消費者の手にわたる。が、時として発火事件が発生したりする。
 テレビメーカーの社員は製造物責任法(PL法)の成立を嘆いたかもしれない。彼の会社がテレビの発火事故などで損害賠償責任を負う場合が増えるという理由で。
 しかし、彼はテレビについては提供者側であるが、彼自身の日々の生活の中で、さまざまの食品や医薬品、あるいは、自動車や事務機器、その他の非常に多くの財・サービスの消費者である。製造物の安全性についての提供者の責任が強化されることによって彼の生活や生命などが守られる場面が間違いなく存在する。
 医師も、医療サービスに関しては提供者(プロバイダー)である。他方で、他の提供者の提供する財・サービスの受け手(コンシューマー)である。さまざまな日用品や耐久消費財を購入したり、さまざまなサービスを受けている。
 また、医師(とその親族)は自らが医療サービスのコンシューマーになることもある。医療サービスが専門分化している状況の下では、ある個人がすべての分野についての専門家であることは不可能であるから、他のプロバイダーによる医療サービスの提供を受けざるをえないだろう。
 例えば、医療事故の問題に関して言えば、私自身が現在までに担当した例の中でも、医師自身が被害者側になった例(小児科医の妻が出産事故にあった例など)、そのほかの医療従事者者が被害者側になった例(元看護婦と製薬会社社員の夫婦の子どもが事故にあった例など)がある。
 つまりは、医療におけるコンシューマーの正当な利益(「患者の権利」)の尊重は、医療従事者の「特権」(簡単に言えば、自分だけがよければよいという思想)の視点ではなく、患者及び患者になる可能性がある人の「人権」(簡単に言えば、誰しも同じような立場に立ちうるという普遍性に基づき、その正当な利益を保護するという思想)の問題としてとらえるべきだろう。

コンシューマーの正当な利益を保護する方向

 広い意味での商品(財・サービス)の提供は、提供者の利益のためというよりも、受け手(消費者)の利益のために行われる。つまり、消費者の選択行動などを通じて支持されない限り、そもそも提供者の地位自体が存立しえない。
 多くの分野で、従来はともすれば提供者側の力が強かった面があるが、製造物責任法・消費者契約法を始めとする流れは明らかに消費者の地位の向上に向かっている。そもそも、個々の財・サービスの提供者の数よりも消費者の数の方が圧倒的に多いのだから、当然であろう。
 このような動きは、多少の紆余曲折があっても、あるいは、少々遅いか早いかの違いがあっても、基本的なトレンドとしては確固たるものだろう。
 医療サービスの提供についても同じことが言えると思う。医療サービスの受け手(患者)の権利が十分に保護されないままでの医療は基本的に長続きしないと思う。
 医療の分野における患者の権利はこの数十年で世界的に進展してきた。
 ここでは個々の動きについては細かく言及しないが、言わばグローバル・スタンダードとして世界医師会(WMA)の「患者の権利に関するリスボン宣言」(1981年、改訂1995年)を挙げることで足りるだろう。
 この宣言では、「以下の宣言は、医療専門家が確認し促進する患者の基本的権利の一部を表すものである。保健医療にかかわる医師その他の個人もしくは団体は、これらの権利を認容し擁護していく上で共同の責任を担っている。医師は、立法、政府の行為あるいはその他の行政機関や組織が患者に対してこれらの権利を否定する場合にはいつでも、これらの権利を保証しもしくは回復するために適切な手段を講じなければならない」として、「良質の医療を受ける権利」、「選択の自由の権利」、「自己決定の権利」などについて規定している。
 しかし、報道によれば、日本医師会はこの改訂の決議に世界で唯一棄権したようで、実質的は反対したとのことである。非常に残念なことであるし、もしも日本医師会が日本の医師集団を正当に代表しているとするならば、私たちは患者の権利を尊重する意識が世界中で最も乏しい医師集団に医療を委ねていることになる。
 いずれにせよ、患者の権利を尊重しようとしない医師がいるとすれば、現代分業社会において存立しえないことの自覚が足りないか、それを自覚しつつも既存の「特権」にしがみつこうとして正義なき抵抗をしようとしているとしか思えないところである。
 患者の権利を尊重しようとする医師が増えること、それを促進するための医療消費者の主体的行動が求められていると言うべきだろう。