webzine 医療改善のために
第1号(2001年5月31日発行)
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<特集 なぜ患者の権利が基本か>

患者の権利とは

堀 康司(弁護士)
(2001.5.29)

1 当然の願い

 私たちは病気になると病院へ行く。頭が痛い、息が苦しい、熱が出た。そんなとき私たちは、病院での診察を希望する。できる限りの治療をして欲しいと願う。当然のことである。
 誰だって、診察を断られたくはないし、手抜きの治療を受けたいとは思わないだろう。

 私たちは病院でいろいろな検査や処置を受ける。入院して手術を受けることもある。注射針を刺されたり、お腹を切られたりする。危険な行為ばかりである。だから私たちは、安全に治療をしてほしい、事故を起こさないで欲しいと願う。当然のことである。
 誰だって、間違った薬を飲まされたくはないし、お腹にガーゼを忘れられたくはないだろう。

 私たちは病院でいろいろな処置を受ける。痛い注射をされたり、辛い思いをしながら内視鏡を飲んだりする。苦痛である。それを我慢するのは、そうしなければ今の病気が治らなかったり、今より悪くなってしまうからである。私たちは必要がないなら我慢したいとは思わないし、別の方法があるなら教えて欲しいと願う。当然でのことある。
 誰だって、効かない薬を我慢して飲みたくないし、どうせ我慢するならより良い方法の手術を受けたいと思うだろう。

 私たちが病院で見たり聞いたりするものは専門的なことばかりである。知らないことがほとんどである。病気や薬の名前は初めて聞くものばかりであるし、何のための器具や機械なのか最初から理解していることはほとんどない。何をされるかわからないのは不安である。私たちは、自分がこれからどうなるのか、どうされるのかを知りたいと願う。当然のことである。
 誰だって、自分のことは自分で決めたいし、知りたいことは教えて欲しいと思うだろう。

 私たちは病院でいろんなことを質問される。裸にされて写真を取られたりする。気分の良いものではない。話したことは内緒にして欲しいし、見られたくない姿は誰にも見せたくないと願う。当然でのことある。
 誰だって、家族にさえ知らせて欲しくないことはあるだろうし、やむなく同室を余儀なくされた赤の他人に自分の病気のことを知られたくはないだろう。

 無理難題をいうつもりはない。
 私たちは、当たり前のことを願っているだけである。

 当然の願い。
「患者の権利」とは、つまりはそういうものではなかろうか。

2 当然の願いが当然になること

 残念ながら、当たり前の願いは、必ずしも当たり前ではない。

 急変しても当直医が来てくれなかった。看護婦が点滴を間違えそうになった。誤って神経を切断した。内視鏡で腸に穴が空いた。そんなに危険な手術とは一言も聞かされなかった。別の手術方法があるのに知らされなかった。家族が亡くなったのに原因を説明してもらえなかった。ミスが起きたのに謝罪がなかった。

 診察の内容がカーテン越しに全部聞こえてしまっていた。カルテを見せてもらえなかった。検査結果を知らされなかった。何の病気か説明してもらえなかった。何のためにこの薬を飲むのかわからなかった。薬にどんな副作用があるのか教えてもらえなかった。他の人の意見を聞きたいと申し入れたら私が信用できないのかと怒られた。

 私たちが病気になったときに、あるいは、私たちの家族や友人が病気になったときに、そんなことを体験したことはなかっただろうか。

 無理難題をいうつもりはない。
 私たちは、当たり前のことが当たり前になるのを願っているだけである。

 当然の願いが当然になること。
「患者の権利」の実現とは、つまりはそういうことではなかろうか。