webzine 医療改善のために
第1号(2001年5月31日発行)

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『ぼくの『星の王子さま』へ 医療裁判10年の記録』(著者インタビュー)

  勝村久司『ぼくの『星の王子さま』へ 医療裁判10年の記録』
  (発行:メディアワークス、発売:角川書店、2001年3月、本体価格1400円)
   https://www.mediaworks.co.jp/alt/oujisama/index.html

                       2001年3月16日
                       聞き手:藤田康幸(弁護士)

藤田:このたびは『ぼくの「星の王子さま」へ』のご出版おめでとうございます。
早速読ませていただき、非常に感動しました。正直に白状しますが、電車の中で読み始めて、涙が出ました。電車の中で私を見ていた人がいたら奇異に感じたかも知れません。その後、事務所で読んでいて、スタッフから声をかけられた時も、涙がこぼれないように上の方を見ながら答えたりしました。
 ジャンルとしてはドキュメンタリーなんでしょうが、すぐれたドキュメンタリーでありつつ、文芸的価値も高い作品と言うべきですね。私はこれまでにこのような本を読んだことがありません。そして、日本の医療改善の歴史に残る名作と確信しています。
 そこで、いろいろともっと詳しく知りたいと思ってお尋ねしますので、よろしくお願いします。

勝村:身に余るご感想をいただきありがとうございます。

藤田:私が一番すごいと思うのは、「星子が生きていたならこの子と遊び、この子を育てるためにかけたはずの時間を、同じような被害が二度と繰り返されないための取り組みに費やしていこう、と決めました。」(4頁、95頁)というところです。
 このような視点を持てること自体がすばらしいし、さらに、それを実践できることが非常にすごいと思うんです。勝村さんが、なぜそのような視点を持てたのかということにすごく興味があるのですが。

勝村:被害にあった後に、自分の心を整理しなければならなかった、その過程の中で行き着いた結論だったのかなと思います。放っておくことはできなかったし、力みすぎてもいけないと感じていました。夫婦でそれ以降の人生をどのように暮らしていくかのスタンスを共有する必要があって、ごく自然なことを改めて確認しあったのだと思います。

藤田:医療被害者の多くが勝村さんと同じような視点を持てて、同じように実践できたら、日本の医療はもっともっとよくなるんじゃないかと思うのですが、いろいろな例を見てこられて、どう思いますか。

勝村:被害者の介護がたいへんだったり、家族の協力が得られなかったり、裁判をするに必要な証拠が巧妙に改ざんされたり破棄されたり、よい弁護士や鑑定医、あるいは裁判官とめぐり会えなかったり、などの理由で、被害を繰り返させないために事実を明らかにしたくても、十分に司法の場で闘いきれず無念に思っておられる方が、残念ながらたくさんおられると思います。
 それでも、市民運動では多くの人が細々と関わり続けていると思います。市民運動はボランティアなので、みんなが自分の関われる範囲で無理をせず関わって、広げていくことが大切だと思います。特に不十分ながらも勝訴なり和解なりで裁判を終えることができた人には、その後も、何らかの形でその思いを広げていくための市民運動に関わっていってほしいと思います。

藤田:私は、医療被害を受けた人々の中で、医療改善のための市民運動に積極的に参加する人が必ずしも多くないことを非常に残念に思っているのですが、何が必要なのでしょうかね。個別被害を超えるための視点、普遍化へのモーメントみたいなものについてですが。

勝村:難しい質問ですね。市民運動は本当の意味でのボランティアだと思うので、一人一人が趣味なんかと同じように、そういう活動が細く長くできるようにならなければいけないと思いますね。基本的には社会全体がもう少しいい意味での余裕を持てるようにならないと、市民運動をしている人たちの負担がきつくなりすぎて、広がりにくいのかも知れませんね。市民運動は横のつながりが必要ですから、手軽につながることができるインターネットの普及なんかがそういう動きを作り出していってくれるとうれしいですね。

藤田:奥さんもすごいですね。例えば、第一審の敗訴判決(1997年2月27日)の説明会で、ご主人がマイクを先に奥さんに渡してしまったが、奥さんが毅然と話されましたね(15頁)。また、奥さんが分娩中(1990年12月4日)に「ひどい目に遭わされたことがわかってきたので、「何もかも覚えておいてやろう」と、最後の気力で頑張っていた。」とありますね(61頁)。
 そのような強さは、どこから出てくるんでしょうかね。

勝村:スポーツが好きで、実際、中学・高校と、持久力でも定評があったほど、色々な意味で自分に対して厳しくできる人で、それがぼくの信頼でした。
 そもそも、子を産もうとする母親の強さ、お腹の中で育ててきた子を奪われた者ならば誰もが持つ母親本来の強さなのかも知れないですね。

藤田:第一審の敗訴判決は非常にショックだったと思うんですが、弱気にならなかったですか。

勝村:強気になったり弱気になったりという揺れは、今思えば、この10年間あまり大きく変化したことはなかったように思います。常にそのときの課題をどうするか考えるのが精一杯だったのが幸いしたのかも知れません。逆に言うと、常に課題が見えていたから続けて行けたのかなとも思います。一審の敗訴判決の直後から、「二審では、こういう点を補充しよう」と考えていました。

藤田:敗訴判決を受けて、「ぼくはこのとき初めて、自分に出されていた課題の本当の意味がわかりかけたような気がした。」(19頁)というところを少し説明していただけますか。

勝村:一審では、鑑定医が「過強陣痛はなかった」と事実とは異なる証言をしました。それでも、原因はなんであれ、異常を発見してから帝王切開を決断するまでにあまりに時間がかかりすぎており、それが直近過失だとして、過強陣痛のあるなしに強くはこだわらず主張をしていました。それは、医療訴訟では正しい手法だったと今も思っています。そういう主張で勝訴になるべきで、実際、高裁ではその理屈通りに逆転勝訴しましたから、一審の裁判官の論理ははやはり不可解だったわけです。
 それでも僕は、「過強陣痛」こそが母子を苦しめ死に至らしめた原因であり、そこへのこだわりを当初から強く持っていました。法的には直接の争点ではないにしても、医療裁判で勝つ技術論としてはあまりこだわるべきではないところだとしても、被害を受けた子の立場からすれば、やはり「過強陣痛で苦しめられた」ということにこだわってほしかったのではないか、と敗訴判決を受けて改めて思ったわけです。
 一審の判決を前向きに捉えるために、裁判そのものが星子が出した課題であり、敗訴判決も星子が下した採点結果だとしたら、自分の答案に欠けていたものはそれだな、とその採点で教えられたような気がしました。こだわっていたけれでも勝つためのテクニックに惑わされて抑えていたものを、「抑えなくてもいいんだよ、まっすぐやりなさい」と言ってもらえたような気がしました。

藤田:10年間の裁判の闘い方を拝見しますと、全体として、勝村さんご夫妻と石川弁護士が言わば車の両輪のように力を出し合って闘ったのだなあという印象があります。依頼者と弁護士が車の両輪になって力を発揮できたのは理想的な形だなあと思うのですが、全体として、どうですか。

勝村:石川弁護士と知り合った頃から「医療と裁判を考える会」という勉強会に一緒に参加していましたから、石川弁護士の「裁判」観がよくわかりましたし、またとても納得できるものでした。
 お互いだけで話をしただけではなく、共通の仲間と共に、色々と情報交換や意見交換をする場があったというのが、より信頼関係を高めることにつながったのかも知れないですね。

藤田:石川弁護士の「裁判」観とは、どんなことですか。

勝村:「裁判は被告を負かすことではなく裁判官にわかってもらうこと」「被告側の尋問はあまり長くやりすぎると慣れてしまって良い証言が得られなくなる」など、医療裁判をするための方法論から、被害者にとって裁判とは何か、という哲学論的なものまで、知り合った当初はいろいろと断片的に石川弁護士の話を聞いて納得することが多 かったです。ただ、「○○観」というようなものは誰にとってもやはり少しずつ変化していくと思いますし、石川先生も、日々の経験をもとに常に変化していっているようなところがあると思います。

藤田:石川弁護士との出会いというのはある種の幸運ではなかったですかね。もっとも、幸運の女神は後頭部がはげているらしくて、前髪をつかまないといけないらしいですが、勝村さんは新聞社に電話して陣痛促進剤に関する記事を探し、陣痛促進剤による被害を考える会の出元さんに連絡し、小西さんの裁判に出かけて、石川弁護士と知り合ったわけで(47頁以下)、自ら幸運をつかまれたという感じがしますが、石川弁護士との出会いについては、どうですか。

勝村:事故直後から、出元さん、小西さん、石川弁護士、長尾さん、と次々に出会いが広がっていきました。
 最初がなかったり、どこかでとぎれていても、とても裁判は難しいものになっていたと思います。

藤田:その後、証拠保全(1991年1月16日。77頁以下)を経て、訴状をじっくり準備し(80頁以下、97頁以下)、提訴(1992年3月6日。102頁)に至るわけですね。
 そして、佐藤医師の反対尋問(114頁以下)、杉坂医師の反対尋問(130頁以下)、市本助産婦の反対尋問(136頁以下)、奥さんの尋問(140頁以下)、天野鑑定(160頁以下)、和解勧告(9165頁以下)、天野鑑定人尋問(183頁以下)、篠倉医師の尋問(209頁以下)、町中医師の尋問(213頁以下)と続くわけですね。
 これらを通じて、石川弁護士の訴訟活動は非常にすぐれていると思いますし、天野鑑定人の尋問に際しての過強陣痛の問題以外は勝村・石川コンビの協同作業が非常にうまくいっていたという感じですが、どうですか。

勝村:全体の裁判に対する方針も、その都度の尋問の仕方も、とても理にかなっていたと思います。
 実際、完全敗訴した一審も、最後の方で裁判官が全員代わってしまうまでは、とても順調に進んでいたように思います。

藤田:天野鑑定人が尋問の最後のころに過強陣痛はなかったと証言したことに対して、対応の仕方についての意見が勝村さんと石川弁護士との間で分かれたようですね。意見の違いが出たのは、裁判の全過程を通じて、このときだけぐらいですか。

勝村:そうですね。

藤田:その場の状況その他を理解していないので意見は言いにくいのですが、更につっこんで尋問することにより、天野鑑定人が証言を修正する可能性があるかどうか、その可能性がどの程度あるかという判断に関わるのでしょうね。
 勝村さんは、天野鑑定人が証言を修正する可能性があると判断したが、石川弁護士は、その可能性は少ない、あるいは、過強陣痛がなかったと強調する証言を繰り返す危険が大きいと判断したということでしょうか。

勝村:石川弁護士の判断はそうだったと思います。そして僕も、それまでと同様に石川弁護士のその判断は正しかったと思っています。ただこのとき、頭ではそうわかっていても、とても自分の心を抑えきれなかったという経験をしたのも事実です。
 それまで石川弁護士には特に何の不満もなかったし、そのときの判断も正論だと思っているのに、なぜ心がこんなにも動揺するのか、を自分で見つめ直さなければいけませんでした。その原因は、決して石川弁護士にあるのではなく、今の司法や社会そのものに欠けているもののせいではないかと思いました。それは、「被害者の心の尊厳の回復」のようなものではないかなと思ったのです。
 医療裁判は、単に勝ったというだけでは、本当の意味での被害の救済、尊厳の回復に至るとは限らない、と感じました。医療裁判をもとに社会を動かしていこうとするときに、もう一度、被害とは何か、被害者は何を求めているのか、を考え直してみると、一般に考えられている答えよりも、第2、第3の答えがあるのではないか、とも感じました。一言ではうまく言えませんが、実際、そのあたりの「単に裁判に勝つこと」を越えた、「被害者のこだわり」の気持ちや、その社会的意味を、この本のテーマにしたいと思って書きました。

藤田:被害者の気持ちなどの問題については、一般には、従来と比べれば、例えば、犯罪被害者の保護やPTSD(心的外傷後ストレス)についての判断などの面で、前進が見られる部分があるのですが、医療被害に即した場合、どのような方向を期待したいですか。

勝村:被害者の心の問題については、医療被害に関わらず、様々な被害に共通のものがある、という認識が必要だと思います。それは、周囲がその人の心をケアしてあげよう、とするだけでは解決できないものです。
 大切なのは、その人の人間としての尊厳を回復することであり、「助ける」というようなことだけではなく、それぞれの人間関係に必要とされているような「互いが尊敬しあう」というようなことだと思います。それを社会が被害者に対して形に表す方法は、唯一「社会が被害から学ぶ」という姿勢を持つことだと思います。それがもっとも、被害者の心を大切にする行為だと思います。

藤田:勝村さんは、裁判で陳述書を出した(153頁以下)のは普通としても、原告名義で準備書面も出されましたね(200頁以下)。また、町中医師に対する反対尋問も行いましたね(215頁以下)。
 これらは異例のことで、特に本人による尋問は認めたがらない裁判官が結構いると思います。尋問というのは答が証拠になるもので、質問自体は証拠にならないのですが、当事者本人の場合はそのことがわかっていないことが多くて、尋問ではなく主張(弁論)になることが多いものですから。
 でも、勝村さんの場合は、裁判所も、尋問の仕方をわきまえていると判断したのでしょうね。

勝村:尋問をしたり、準備書面を書く段で、「少し争点がずれているが、全体の把握のために裁判官にはぜひわかっておいてほしい」、ただ、「弁護士がそれをやるには、裁判官から少し違和感を持たれるかも知れない」というようなものがありました。
 そういう場合、一審では、「弁護士に無理に言ってもらうか、我慢して一切何も言わないか」を選択しました。しかし、二審では、そういう場合は、原告本人がやれば違和感がないのではないか、と思いました。そして、「弁護士が言うべきことを弁護士がやり、原告が言いたいことは原告が言う」とすることで、裁判官にはもっともよく全体を理解してもらえるのではないか、と思いました。
 今思えば、1審では、ぼくは、妻と弁護士の間に立った第2の弁護士ぶっていたように思います。でも、2審では僕は原告の1人であり、弁護士とは違う、というスタンスを取りました。だからこそ、2審では、僕自身が少しですが準備書面を出し、鑑定人尋問も少しするということに至ったのだと思います。

藤田:裁判に関しては、もう1つ、傍聴のことについても聞きたいです。傍聴者にアンケート用紙を配布して感想や意見を書いてもらった、そして、帰宅後にお礼の電話をしたりお礼の手紙を書いたということですね(139頁)。
 これも、すごいことだと思いました。大変だったでしょう。

勝村:傍聴に来てくれる人も、皆とても大変だったと思います。来ていただいた人に電話で話をしたり手紙を書くのは、それと比べれば大したことではないのだと思います。とは言うものの、それらはほとんど妻がやってくれていましたが。
 応援してくれる人と話ができるのは、ある種、本当にうれしいことではなかったのかなとも思います。

藤田:一般に裁判を通じての闘いの場合、傍聴者の多さが、当事者の主張(事実についての主張と法律的な主張)の客観性の証を裁判官に示すという意味があり、「これだけ多くの人が当事者の主張に関心を持ち支持しているのだ」ということを裁判官にわからせることが意味を持ちますね。
 勝村さんも「個々の孤独な医療裁判であるだけに、とにかく交流していくこと。そして、より大きなテーマに取り組むこと」が必要だと書かれています(90頁)が、多くの人がよく傍聴してくれたようですね。

勝村:はい。一審の尋問では、傍聴席が満員になり、途中で入れ替えをお願いしましたが、それでも入れないまま帰られた方がおられた、というようなときもありました。

藤田:敗訴判決後の高裁でも傍聴者は減らなかったですか。

勝村:そうですね、尋問の時はいつもほぼ満員だったと思います。

藤田:それと、「石川弁護士はいつも裁判所1階のホールで、傍聴に来てくれた人たち向けに、どんな内容の書面が交換され、今後どのように進んでいくかを説明してくれた」(104頁)とありますね。
 これもすばらしいですね。なかなかできないことです。私なども、教科書裁判や労働事件などでは法廷後に傍聴者集会などで報告したりしてきましたが、医療裁判では経験がありません。とにかく、すごいことですね。

勝村:石川弁護士は、証人尋問の時だけでなく、書面の交換だけのときでも、その後に必ず30分から1時間は時間をあけてくれていて、裁判所の1階で傍聴に来てくれた人へのその日の説明、そして更に時間がある人で裁判所裏の喫茶店でいつも交流するのですが、その場にもたいてい来てくれていました。
 それは、基本的にどの医療裁判でもそうされているようです。忙しすぎて、普段はなかなかつかまらないし、法廷のある日もいつもぎりぎりまで来ず、被告側の弁護士より早く来たためしはなかったですが、必ず、その後に少し時間をとってくれていましたので、書面交換だけのときに傍聴に来てくれた人も、皆満足してくれていたように思います。

藤田:鑑定書が出た後、3人の裁判官が全員交代しましたね(165頁)。全員がいっぺんに交代するというのは珍しいですね。合議事件の場合、普通は裁判長と主任裁判官(地裁の場合は、普通左陪席裁判官)が中心ですが、裁判長はどこかのポストが空けばトコロテン式に動くことがあり、左陪席は3年ごとぐらいに転任することが多いですね。それにしても、全員がいっぺんに交代するというのは珍しいですね。
 裁判官の交代がプラスの方向に働く場合もなくはないのですが、勝村さんの事件ではマイナスの方向に働いたんでしょうね。

勝村:全く同じ日付かどうかはわかりませんが、ある公判とその次の公判の間に、3人とも代わっていました。石川弁護士は、結審間際の3人一度の交代の経験は2回目だと言っていました。合議でやっている意味がないと思います。順調に進んでいた証人尋問を聞いてくれた裁判官が1人もいなくなってしまったのですから、たいへんショックでした。

藤田:裁判官の交代後、和解勧告がありましたね(1995年5月11日。165頁以下)。和解への対応というのは非常に難しくて、全面敗訴のリスクを避けるために一定の妥協をしたくなることが多いのですが、和解を拒否するのに迷いは全くなかったですか。

勝村:迷いはなかったです。僕たちの場合は、子どもは既に死んでしまっていましたから、医療費や養育費の問題もありませんでしたし、それまでの公判の中でも病院側には一定の誠意のようなものさえなかったからだと思います。
 いろんな条件で、とてもひどい医療被害なのに和解せざるを得ない事件、または、とてもひどい医療被害だからこそ和解すべき事件が、実際に僕たちの周囲にありました。それらと比べて、僕たちの被害は、裁判に関しては和解せず判例をつくって行きやすい条件が揃っている方だと思っていましたので、その人たちの分も僕たちは頑張らなければいけないと思っていました。
 ただ、裁判官の考えていることについて情報収集をするためにも、裁判官が提示する和解の条件だけでも聞こうかな、と思ったりもしましたが、それよりも、僕たちがなぜ和解ではなく判決を求めているのかを裁判官に説明をして、思いをわかってもらうことの方が大切だと、そのときは思いました。

藤田:和解期日に裁判管が代理人弁護士だけを呼んで話をしたようですが、そういう場合、当事者を説得できないのは弁護士として無能だみたいな感じのことを言われることもあるのですが、石川弁護士は無理に勝村さんを説得しようとはせずに、勝村さんの気持ちを尊重したようですね。

勝村:石川弁護士が僕に和解を勧めるようなことは一切なかったですね。一審の途中で、「被告側の弁護士と偶然裁判所のエレベータで会って、被告側は和解したがっているような感じだったですよ」と言われたことが一度あったような気がします。そのときもはっきり和解をするつもりがない理由を簡単に話したと思いますが、石川弁護士はそのときも、最初から僕たちの思いがわかっていたような感じでした。

藤田:鑑定人の出張尋問の際、「場所が狭いので、原告本人には来てほしくない」とか、「来るにしても1人だけにしてほしい」という要請があったようですね(183頁)。これは、けしからんですね。当事者には出席権があるわけですから。
 そんなことを要望する鑑定人も問題ですが、そのような要望を取り次ぐ裁判所も問題ですね。

勝村:鑑定医に対するマナーはもちろん必要ですが、不条理まで受け入れるような姿勢では、裁判所が鑑定医に気を遣い過ぎているということになるでしょう。「裁判所が自ら考え判断していく中で分からない点だけを専門家に尋ねる」という姿勢ではなく、「どのように判決を書いたらよいかを、全て鑑定医に教えてもらおう」という様な姿勢だから、マナーを越えてこびへつらうようなことになってしまっているのではないか、とさえそのときは思いましたね。

藤田:枚方市民病院のことですが、提訴時の記者会見(1992年3月6日)の時に、記者から、「お2人は、ずっと枚方市で暮らしておられるんですよね。あそこの病院の悪い噂を聞きませんでしたか。私も枚方だけど、私は行かないですよ。」という質問があり、勝村さんは、「どこの病院にもいい噂も悪い噂もあると思うんです。もっと具体的で客観的な情報が明らかにされていかないと、病院や医者を選ぶ判断は誰にもできないと思います。そもそも、どこを選んでもきちっと診てもらえるようにならないと、いつか誰かが被害に遭うでしょう」と答えましたね(102頁以下)。
 この回答もすばらしいですね。日本の医療消費者が置かれている状況を鋭く指摘していますし。

勝村:情報公開にはいろいろな意義がありますが、その目的が、「自分だけ良い医療を受けたい」ということだけでは、誰かが被害にあってしまうと思います。情報公開の第一の目的は、医療界全体の底上げであって、とんでもない被害を全体からなくしていくことだと思います。その上で、さらにそれぞれの医療が不本意なものになってしまわないために情報公開を活かしていくわけで、それは第2番目以降の目的だと思っています。
 僕たちの被害の頃の医療界は完全に閉ざされていたと言っても過言ではなかったですから、それらが全く果たせていなかったと言うことになると思います。

藤田:枚方市民病院は控訴審で敗訴して、上告せず、判決が確定しましたね(233頁)。先方が上告を断念した要因について、どう思いますか。

勝村:少し意外な感じもしましたが、石川弁護士は、被告側は上告しても勝ち目がないとして上告しないのではないか、と高裁判決直後に言っていました。今思えば、もしかしたら被告側の弁護士からすれば一審が勝てたこと自体が不思議だったのではなかったのかな、という気もしますね。

藤田:その後、枚方市に対する要望書の提出(233頁)、元院長の犯罪の露見(238頁)などがあって、勝村さんご夫婦が参加された職員研修(2000年12月14日。240頁以下、247頁以下)と続くわけですが、この職員研修は圧巻ですね。
 病院側が森功医師(八尾総合病院院長、医療事故調査会代表世話人)に講師を依頼したこと、そして、森医師が勝村さんから話を聞くことを提案したことなどが大きいですね。
 病院側はよく森医師に講師を依頼したなあという感じもするのですが、そのへんは、どうですか。

勝村:枚方市民病院は、元院長の逮捕で社会的には落ちるところまで落ちていながら、新しい院長にすれば、信頼回復をするためのリーダーシップの取り方がわからず、本当にこれからどうしていくべきかを知りたかったのではないでしょうか。

藤田:森医師の提案、それらを前向きに検討するとの山城院長の回答、勝村さんご夫妻のお話、司会の大熊さん(朝日新聞論説委員)のお話など、非常に中身のある研修会だったようですね。
 その後、枚方市民病院に改善のきざしはありますか。

勝村:研修会の1ヶ月後くらいに市役所から新たに理事が病院に入り、改革のための動きをつくろうとしているようです。この春くらいに、病院の改革のためのビジョンが提示されると聞いています。

藤田:1990年12月に第1子の星子さんが生まれ、1993年5月に第2子の真司君が生まれましたね(142頁以下)。出産事故に遭われたかたは、次の出産を非常に躊躇される場合がありますね。立ち入った質問ですが、次の出産を躊躇するようなことはなかったですか。

勝村:妻の場合は全くなかったですね。逆に妻には、自分のせいで子どもが死んでしまったのではないことを証明してみせる、くらいの気迫がありましたね。最初の事故のときに、出血が止まらず2、3日が峠と言われて死にかけていたのを回復しましたから、一つ間違えば死ぬという恐怖があったと思うのですが、逆に、そういう体験が恐いもの知らずにさせたのかも知れません。
 僕の方は、そのころ「人間は、一度失敗をしても、それでも更に生きていくしかないのなら、どれだけ大変なことでも、また1からやり直すしかないんだな」というような境地になったこともあります。

藤田:そして、1995年8月に第3子の良司君が生まれました(170頁以下)が、また出産事故に遭われましたね。神様はここまでも過酷な試練を与えるのか、という感じがするぐらいですが、この事故については法的責任の追及はされなかったのですか。

勝村:法的にはしていません。本の中にも書いてありますが、諸般の事情で迷いつつもやめました。
 だけど、この事故に関しての僕への宿題は課せられたままだと認識していますので、親としての何らかの回答を良司に示さなければいけないと今も思っています。

藤田:そして、1997年10月に第4子の健司君が生まれた(206頁以下)のですが、良司君が1998年1月に2歳半で亡くなったのですね。高裁の審理中にも悲しい出来事があったわけですが、気持ちがくじけるようなことはなかったですか。

勝村:良司の事故や、死は、とてもつらいものでした。本の中でも多くを書くことはできませんでしたが、僕自身、今も、精神的にとてもつらいことです。

藤田:真司君の名前には、「司法に真実を」という意味も込められているようですが(143頁)、良司君や健司君の名前にも、司法に関わっての意味も込められているのですか。

勝村:1人目の星子と2人目の真司は、僕が原案を出してそのままその名前になりました。
3人目、4人目は妻に原案を出してみたら、と譲りました。良司、健司と妻が名付けた理由については、詳しく聞かずにおります。

藤田:この10年間に勝村さんがやられたことは非常に多いし、大変だったと思うのですが、「楽しみながら、市民運動や裁判をやろう。公判でもシンポジウムでも、厚生省交渉でも、2人で全部参加して、そして必ずついでに遊んで帰ろう。」(96頁)というスタンスは守れましたか。遊ぶ余裕はあまりなかったのではないですか。

勝村:事故から3年後に次の子供が産まれる直前までは、きっちりと守れたと思います。
 それ以降は、子どもの関係で、自分1人で出かけることが多くなりました。まだ暗い早朝に1人で始発電車で東京へ行き、1日中仲間と一緒に厚生省と交渉をしても何の実りもなかったときなどは、帰りにまた東京駅から1人新幹線に乗って最終電車で家に着くころには、とても寂しいというか虚しい気持ちになっていたりします。妻と一緒に行ってた頃は、実りがなくても何となく充実していたような気がしますね。

藤田:1996年4月に医療情報の公開・開示を求める会が結成され、事務局長になりますよね(205頁)。この会の事務も大変だったのではないですか。

勝村:できるだけ、たいへんにならないように工夫をしていますし、妻が会報の発送作業などはほとんど一人でやってくれているので、ばたばたしながらも何とか続いています。でも、たしかに、四苦八苦です。

藤田:例えば、どんな工夫ですか。

勝村:もちろん、あれもこれもやりたいこと、やらなければいけないと思うことはたくさんあるのですが、他の市民団体も頑張ってやってくれていることは、そちらにお任せしてしまって、どこもやっていないような運動に特にまとを絞っていこう、みたいな感じとか、ですね。

藤田:レセプト開示のための運動や働きかけなどについては、勝村さん編著の『レセプトを見れば医療がわかる』(メディアワークス、1998年)に詳しいのですが、勝村さんの取り組みは、公立学校共済組合から開示を拒否されたこと(84頁以下)から始まったわけですね。1991年ごろですか。

勝村:そうです。

藤田:細かいことですが、「証拠保全の資料の中に、なぜかレセプト(診療報酬明細書)の写しが入っていなかったんですよ。」(83頁)という話はよく理解できないんですが。つまり、普通は証拠保全申立書でレセプトの控えを検証物に入れると思いますし、証拠保全の当日にレセプトの控えを保全できたかどうかがわかると思うのですが。

勝村:これは、うっかりミスだったんでしょうね。裁判所の証拠保全には、都合で、別の弁護士が付き添ったようです。当初は証拠保全に僕たちも立ち会う予定だったのですが、用事ができて、無理をしなくてもいいですよ、ということで行きませんでした。

藤田:この本は、すばらしい生き方と実践をされたからこそ出来上がったものだと思いますが、実際に執筆にかかられてから、どのくらいの期間で書き上がりましたか。あるいは、かなり前から実践とともに書いておられたのですか。

勝村:この本のほとんどは、今年の冬休み、特にお正月の間の真夜中に3、4日かけて書き上げた感じです。だから、今年の三が日は、ずっと昼過ぎまで寝ていました。これまでの10年間に、いろんな市民団体の会報や雑誌などに、裁判や市民運動のそのときどきの経過を書いてきましたから、それらの電子データをつないで再編集しながら、新たにそのときそのときの心の動きを思い出して書き加えていく、という作業でした。

藤田:非常に多くの質問に答えていただき、どうもありがとうございました。この本は、ドキュメンタリーとしての価値だけでなく、文芸的な価値も高い作品だと思いますが、後者の面については私の能力を越えますので、前者の面についての質問だけになりましたが。
 今後も、絶妙のスタンスで活動を続けていってください。

勝村:どうも、ありがとうございました。