webzine 医療改善のために
第2号(2001年9月15日発行)
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<医療被害から考えること>

悲しみと怒りにひそむまことの心   

杉野 文栄   
2001.9.10   

 皆さん、こんにちは。 東京都の杉野(cedar)です。

 池田小学校の事件についての皆さんのご意見を読ませていただいていて、最愛の子どもを亡くした者として、感じたことを書かせていただきたいと思い、勇気を出して投稿することにいたしました。いつもながら長くなってしまって申し訳ありません。

 昨日、「埼玉医大と戦う家族の会」が開かれ、埼玉医大とは関係ありませんが、永井さんや私も参加しました。たくさんの新聞社の方やテレビ局の方もお見えでした。
 それぞれが「私は家族を病院で殺されました」と訴えていました。実際に、抗精神病薬の過剰投与でお嬢様を亡くされた方は殺人罪で検察に告訴しています。その理由は、「医師は『医薬品添付書も読み、治療は適切だった』と言っている。過失だったというならともかく、過失でないなら故意であり、未必の故意による殺人だ」ということです。
 広尾病院の点滴事故の遺族の永井さんも、最初は同じ未必の故意による殺人で警察にご相談なさいました。繰り返しになりますが、永井さんのご子息は医師でいらっしゃいます。
 抗がん剤過剰投与の古館さんも殺人罪での告訴をずっと望んでいらっしゃいました。永井さんも古館さんも、すぐに救命しようとしないで、隠蔽をくわだてた点に殺人としての要素を感じられています。(結局、どちらも告訴は業務上過失致死でした。)

 私たちの場合は、被害届を出しただけです。適切な治療をしてくださらなかった医師に私の息子を殺そうという意志があったとはもちろん思っていません。ただ、故意でも、過失でも、息子の命が絶たれたこと、あれから私たちに以前のような幸せが決して訪れないこと、ある意味で私たちも死んだというのは同じことなのです。池田小学校以外にも人が人の命を奪うことがありうるという(栗岡さんの)ご意見は、私にはそのように読み取れました。
 故意でもそうでなくても、家族を失うという圧倒的な事実の前には悲しみは全く同じです。少なくとも「殺されたわけではないのだから・・・」という気持ちの整理はできません。ただ、もし故意でないことで、遺族が少しでも救われるとしたら、過失をおかした人の心からの謝罪や反省が聞かれ、また、その組織が二度と同じことが起こらないように最大限努力していることが認められたことによるような気がします。埼玉医大に限らず、どの被害者にも共通しているのが、そうした「救い」がないということなのです。

 きのう集まったすべての被害者が、心に計り知れない深い傷を受けていました。疑問なのは、天災などの後には積極的に被害者の心のケアをする病院が、なぜご自身の責任で患者の命を奪ってしまっても被害者の救済にあたらないのかということです。私たちの場合は全く過失はなかったという病院のお考えなので、謝罪や救済がないのは筋が通っていますが、過失を認めている場合でも、病院や医師が被害者の心の傷に手を差し伸べたという話は聞きませんでした。「花が欲しいわけではない。でも花一輪供えようとしない気持ちがくやしい」という声もありました。「一周忌になってもお線香さえあげにこないというのは・・・」と、永井さんは看護婦の指導をしていた奥様の死を嘆いていたとおっしゃっていました。

 息子の治療にあたった医師を殺したいと思ったことはありません。永井さんは民事では担当の看護婦を被告としませんでした。息子の治療にあたった医師に望みたいのはただ1つ、「どうぞ本当のことをおっしゃってください」ということだけです。そして、立派な医師として、隼三の分もこれから子どもの命を救ってくださいとお願いしたいと思います。

 7月の三回忌に勤めている高校の生徒が隼三の大好きだった「もののけ姫」の主題歌を歌ってくれました。隼三の無邪気ではしゃぐ姿が出席者の心によみがえりました。
 「悲しみと怒りにひそむまことの心」という歌詞がありましたが、私は「まことの心」を大切に残りの人生を生きていきたいと強く思いました。

 皆さんにはこれからもご支援をいただくことと思います。
 どうぞよろしくお願いいたします。