webzine 医療改善のために
第2号(2001年9月15日発行)
05

counter


<市民運動と医療改善> 

医療と市民運動   

栗岡 幹英(社会学研究者)   
(2001.9.11)

始めに

 患者中心の医療が求められて久しい。しかし、現実には、その実現は今だ不十分なように見える。第一に、3時間待ちの3分診療と言われる短い診療時間には、改善の兆しがない。そのことは、インフォームド・コンセントの理念に実効性がともなっているかを疑わせる。第二に、初歩的な医療ミスが相変わらず発生し、表面化しない事件が数多くあることを推定させる。「患者中心」の理念に医療の質が追いついていない可能性がある。第三に、麻酔科医の不足が改善されないとか救急医療体制の不備、あるいは小児科医が急減するなど、必要な医療が充分供給されないという事態が生じている。これもまた上と同様の事態だといえる。
 もちろん、他方でガン告知が進むなど、インフォームド・コンセントの理念が徐々に浸透し、自己決定の条件が整えられているのも事実である。この状況をさらに押し進めるためには何が必要か、考えてみたい。

なぜ患者中心の医療が求められるか

 現代は慢性病の時代だと言われている。老人医療費の高騰が社会問題になっているように、高齢者の多くは慢性的な不調を訴え、日常的に病院に通院している。この国の貧しい高齢者介護の状況、とりわけ充分な介護を受けないために「寝たきり」にならざるをえない老人たちの状況が報道されるにつけ、人々は世界一の長寿国の長い高齢期にいかに健康を保ちつつ自立的に生活するかを考えざるをえない。
 他方で、都市化によって親世代と子世代の居住地が遠方になり、家意識の希薄化によって子世帯の独立が進んで核家族が普通になった。少子化も進行して世帯当たり人口が減少すると、小さな家族のなかでは家族関係の高密度化が生ずる。家族の一人の不健康が、精神的にも実際的にもほかの家族の生活に大きな影響を及ぼすのである。
 このような状況のもとで、人々は、自らのライフコースと家族設計に関わる重要な問題として、健康に関する関心を高めることになった。
 加えて、一方で高度成長の結果としての生活水準の上昇や、社会分化の進展、そして高度情報化が、他方でこの科学技術に高度に依存した生活のもたらす環境への負荷が、人々の価値観の多様化をもたらした。人々の選ぶライフスタイルが多様化するなかで、それを選ぶ意識が先鋭化した。つまり、与えられた境遇を受動的に受け入れるのでなく、情報を集め、自覚的に選択することが普通になったのである。この自覚的なライフスタイル選択の意識は、その選択の基礎となる健康への関心が高まることへとつながった。
 さらに、医療技術が絶えず高度化するなかで、一方で治療法の選択の幅が大きくなり、他方で侵襲性の高い医療が一般化した。後者は、医療の不確定性が増大することを意味する。たとえば、30%の死亡率があるが5年間以上の生存が見込める外科的手術と、当面の危険はないが1,2年程度の延命しか可能でない処置とのどちらを選択するか、という可能性がある場合、医師はその選択を負いきれないであろう。もちろん患者もそのような選択は自らしたいと望むことは当然である。診断治療の面から見てさまざまな選択が可能になったので、患者は完全な健康の回復という願望にとらわれず、自らのライフスタイルにあった身体状況を選択できるのである。
 これらの事情が、患者中心の医療への動きの背景にあると考えられる。

患者の権利と患者中心の医療

 上に書いたような患者中心の医療を求める人々の意志は、医療のシステムの側の対応する動きを生み出した。
 「患者中心の医療」への流れは、世界医師会(WMA)が1981年のリスボン総会で採択し、1995年のバリ総会で改訂した、患者の権利に関する宣言で明確に表明された(1)。この宣言は、医療者が患者の「権利を認容し擁護していく上で共同の責任を担っている」と述べたうえで、「良質の医療を受ける権利」、「選択の自由の権利」、「自己決定の権利」、「情報を開示される権利」などについて規定している。
 このリスボン宣言に呼応する形で、諸外国や日本のさまざまな団体が患者の権利の確立に取り組んできた。諸外国の法制化の歩みとして、ドイツ連邦裁判所判決1982、USA統一医療情報法1985、スウェーデン患者記録法1985、イギリス年診療報告アクセス法1988および保健記録アクセス法1990、オランダ医療契約法1993などが挙げられる。
 日本においても、いくつかの団体が「患者の権利章典」を成文化しているし、「患者の権利法」制定への動きも着実に勢いを増している。医療生協「患者の権利章典」1991、患者の権利法をつくる会「患者の諸権利を定める法律案要項」1991、1993一部改訂「医療記録法要綱案」1999、国立大学付属病院院長会議「国立大学附属病院における診療情報の提供に関する指針」1999.2、日本医師会「診療情報の提供に関する指針」1999.4、東京都「都立病院における診療情報の提供に関する指針」1999.11、日本看護協会「看護記録の開示に関するガイドライン」 2000.5、全国国立大学病院看護部長会議「国立大学病院における看護記録の開示に関する指針」2000.5、厚生省国立病院等診療情報提供推進検討会議「国立病院等における診療情報の提供に関する指針」2000.6など。また、2001年の通常国会には、民主党が患者の権利法案を提出しており、市民の立場からかなり評価できるものになっている。

患者中心はなぜなかなか実現しないか

 上に見たように、理念の成文化の過程は日本においても着々と進行しているといえるだろう。しかし、それらの理念は、現場の診療において充分実現されているとは言い難い。それには、システムの問題、医師側の問題、患者側の問題という3つの観点から考える必要があるだろう。
 システムの問題としては、投入される資源の量と配分のあり方が問題になるだろう。高騰する老人医療費によって健保財政が破綻の危機に瀕しているが、かならずしも患者の望む医療を行った結果とはいえないのではないか。コスト、アクセス、クオリティを兼ね備えた最適な資源配分が行われるためには、多様に分化した患者の意志を把握することが必要だろう。
 医師側の問題として一番重要なのは、そのパターナリズムである。日本の医師の6割が加入すると言われる日本医師会は、リスボン宣言の採択にあたって世界の医師会で唯一棄権したという。また、診療記録開示の法制化が医師会委員のつよい反対で流れたことも記憶に新しい。日本医師会は、いまだにパターナリズムの残滓を引きずっているといわれてもやむを得ない。
 強い影響力をもつ専門家集団は、既得権益を超えて自らの決定権を自発的に放棄することはない。医師のパターナリズムを克服するには、患者の側の働きかけも重要になる。しかし、残念ながら多くの場合に患者の「お任せ」意識が払拭されていない。医師が説明し、選択を求める場合ですら、「お任せします」と下駄を預けてしまう患者もまだ少なくないのが現状だ。

患者中心の市民運動を

 医療は、高度にシステム化された領域である。健保制度一つを取ってみてもわかるように、個人が自分の財布をもって市場で売買するというような、単純な市場システムではない。このような領域では、システムの改善なしには、個々の診療を良質なものにしたり、患者中心の医療を実際の診療の場で実現することはできない。
 他方で、医療は、個々の患者に志向した成果を達成すべき領域である。個々の患者の意向をくみ上げることなしには、改善できない。ところが、医療は高度な知識・情報が集積された領域なので、患者がこのような知識・情報を充分に身に着けるのは非常に困難である。このことから、診療の場面において、患者は弱い存在である。このような立場では、対話型の情報交換は簡単には実現できない。
 上記の点を勘案すれば、患者個人の意志と医療のシステムをつなぐ中間的媒介的なしくみが必要である。つまり、患者の参加を援助するためのしくみが必要である。このようなシステムに支えられない限り、個々の患者が診療の現場で医師と対等な関係をとりむすぶのは難しいだろう。
 たとえば保険制度のシステム設計やその改変にあたっては、保険者側の代表が参加するなどの仕組みはある。しかし、患者個人の意志は、たとえば各医療機関における「意見聴取箱」などのような試みに委ねられていると言わざるをえない。患者の意志を集約し、代弁する仕組みないし組織が必要である。
 現状では、このような仕組み・組織としては市民運動団体が有力であろう。なぜなら、自己決定権に基づく患者中心の医療を求めるにあたっては、「自発性」がキーポイントになるからである。
 MIネットがこのような市民運動団体になりうるかどうかは、医療のシステムに介入できる知的および人的資源、したがってその基盤になる経済的資源、を確保できるかどうかにかかっている。