? 東大分院輸血梅毒事件
1951 ニホンブラッドバンク(ミドリ十字の前身)・横須賀血液銀行設立
1952 日本赤十字社直轄の東京血液銀行設立
1964 ライシャワー事件による米国大使の輸血肝炎感染
8月 献血による血液確保のための閣議決定
1964年 G・G・プール、クリオプレシピテートを開発
1967年 コーン分画製剤(クリオ製剤、商品名AHG)の製造承認
1970年 乾燥クリオプレシピテート製剤(商品名AHF)の製造承認
1972年 血友病Bに対する濃縮製剤(感想人血液凝固第九因子複合体)の承認
1975 血液問題研究会の献血による血液確保の意見具申
1976 アメリカからの原料血漿および血液製剤の大量輸入の開始
1976.1.12 川田龍平君誕生。
7月 川田君、血友病の診断。血液製剤の点滴開始。
1978年 血友病Aに対する濃縮製剤(乾燥濃縮抗血友病人グロブリン製剤)の輸入・製造が承認
1981年7月 アメリカCDCがMMWR誌上でエイズをはじめて報告。
1982年4月 川田君、小学校入学。
1982.7 CDC、AIDSを命名
1982年7月20日 毎日新聞、「『免疫性』壊す奇病、米で広がる」と日本で最初のエイズ報道。
7月 血友病児の合宿で、「危険では?」との患者の父親の問いかけに、医師は「患者さんが製剤まで心配することはない」、「環節生涯を残さないために、積極的に製剤を使った治療が望ましい」と発言。
1982年12月 カッター社(現バイエル社)、『カッターメモ』作成。
1983年1.3 米アトランタでの会議で血液製剤の危険性指摘。
デフォルジュ氏、NEJM誌に血友病治療の「クリオへの後退」を提案。
1983.2 健保で血液製剤による家庭療法を承認。
1983.3.21 FDA、血液製剤の緊急加熱を認可
1983.4.19 毎日新聞、「米国でナゾの伝染病」の記事掲載。
1983.5 モンタニエ博士、LAVをサイエンス誌に報告。
1983年6月 厚生省、エイズ研究班を組織。
6月 日本トラベノール社(現バイエル社)、アメリカ性血液製剤の回収措置を取ったと厚生省に報告。
7月 東京医科大学病院、患者説明会を開催、「血液製剤は安全」と説明。
1984.04 ギャロ博士、HTLVIIIを報告。
198410月 血液事業検討委員会設置
1985年3月21日 朝日新聞、「日本にも真性エイズ」と報道。帝京大学の血友病患者がすでに死亡との内容。
3月27日 川田君主治医の荻窪病院稲垣稔医師から、「エイズ発症の可能性は低いので、治療を続けるように」との手紙。
5月30日、厚生省、帝京大学付属病院の患者をエイズと認定。
1985年7月 第八因子製剤の加熱製剤の製造承認
1985年8月 血液事業検討委員会第一次中間答申、すべての血液製剤の献血による確保を再確認
11月16日、東京ヘモフィリア友の会、国立予防衛生研究所の北村敬氏を招き、講演会を開催、「エイズの発病率が高い」と発言。
1985年12月 第九因子製剤の加熱製剤の製造承認
1986年1月下旬、川田悦子さん、主治医より龍平君感染の告知を受ける。
1986年12月、川田悦子さん、龍平君にエイズの告知。
1987年?月 神戸エイズ報道。
1月 政府、エイズ予防法案を提案。
1987年6?月 川田龍平君、インターフェロンの注射を開始。
1987年10月、川田龍平君、帯状疱疹のため荻窪病院に入院。その後、自主退院して東大医科学研究所付属病院に転院。
1988年 エイズ防止法案、強行採決。
1988年6月15日 血液製剤エイズ禍弁護団結成
1989年5月 大阪HIV訴訟提訴(原告2名)
10月 東京HIV訴訟、提訴。
1992年3月 濃縮製剤原料を日本での献血でまかなう体制になる
1993年9月17日 川田龍平・悦子さんが東京HIV訴訟の原告団に参加。
1994年2月末 厚生省による薬害エイズの被害者調査でこのときに4000〜5000人の血友病および類縁疾患の患者のうち、1771名がHIVに感染、うち418人がエイズを発症。これは、日本のHIV感染者累積報告数(患者を含む)3247人の54.5%、エイズ患者累積報告数700人の59.7%。
1994年8?月 第10回国際エイズ会議、横浜で開催。
1994年9月12日 川田悦子さん、全米科学アカデミーの公聴会に出席し、真相究明を訴え。
1995年5月 アメリカ政府のエイズ報告書。
1996年5月28日 厚生省のエイズサーベイランス委員会(山崎修道委員長)、国内での献血血液が原因でエイズを発症した疑いのある症例が報告されていたと発表。
1996年5月30日 ある病院で、1981年から85年にかけて、非加熱製剤を未熟児等の嬰児75名に投与していたことが判明。
5月28日、衆院厚生委が元ミドリ十字社長松下廉蔵氏を参考人として招致